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善光寺平をバックに運行中の2号搬器。 -昭和40年代の絵葉書
長野県の県庁所在地である長野市は、名刹・善光寺の門前町として、また1998年の冬季オリンピックの開催地として国際的な知名度を誇る街。
善光寺ロープウェイは、善光寺の北側後方に位置する地附山(ぢづきやま:標高 732m)の山麓駅(雲上台駅)と山頂駅(地附山頂駅)間の水平長570mを約8分で結んでいた、1961年開業の民営の索道です。
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1960年(昭和35年)6月、レジャーブームの到来を予見した長野市は、観光開発推進委員会を設置。
善光寺・城山公園・大峰山・地附山・飯綱高原一帯の整備と温泉場の開発及び善光寺御開帳(昭和36年4月10〜5月20日)に合わせた産業博覧会の開催など、5つの項目から成る、観光開発5ヵ年計画を立案します。
長野駅から至近とはいえ、それまでは人の訪れることのない山中だった大峰山と地附山の観光開発は、大峰山を市が、地附山は民間資本によっておこなうことになり、地元企業などの出資による観光事業者(長野国際観光)が設立され、同年10月、索道と大峰山・地附山を結ぶ観光道路の建設が着手されます。
翌1961年3月、索道が開業し、5月には自衛隊の協力によって観光道路も完成、山頂には遊園地(地附山山頂大遊圓地)がオープン。さらに1962年から1963年にかけて、山頂にスキー場と動物園が、山麓駅のある雲上台にヘルスセンター(善光寺ヘルスセンター)とゴルフ場が相次いで開業し、大峰山にも大峰山展望台(大峰城:現・チョウと自然の博物館)が完成。
山麓駅へは長野駅からの直行バスが運行を開始し、県外からも多くのレジャー客が訪れ、初年度には約50万人がこの索道を利用しました。
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索道(中央)と遊園地の観光リフト(その上)の路線が描かれている1967年発行の地形図 |
これらのレジャー施設はいずれも昭和40年頃までは盛業でしたが、長野県による市街と戸隠高原方面を結ぶ観光有料道路(戸隠バードライン:1964年全面供用)の完成によって地附山一帯は通過地になってしまい、同エリアのレジャー事業は低迷を始めます。
1971年(昭和46年)には奪回を図るべく、市の公社への施設の譲渡による継続営業が試みられますが状況は好転せず、1974年4月に索道は運休、翌1975年(昭和50年)に正式に廃止されました。
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【参考文献】
長野市誌 第七巻 歴史編 現代 長野市誌 第十六巻 歴史編 年表
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長野市 2004 長野市 2005
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【訪問記】 2006年12月 2008年11月
山麓駅だった「雲上台駅」は、当時の観光用の索道の駅舎としては全国一の規模といわれた、鉄筋コンクリート製の立派な建物だったそうですが、現在は跡形も無く撤去されており跡地は大きな駐車場になっています。
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雲上台駅跡地。
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山頂駅の「地附山頂駅」跡へは、戸隠バードラインの1985年の地すべり*注1によって廃道となった区間を歩いてアプローチします。
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地附山頂駅のプラットホーム跡。 |
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トライアルバイクの練習場の裏手にある山頂駅跡には、現在アンテナ施設が建てられていて、駅跡の土台の一部がFM送信所の施設として再利用されています。
右上の写真は、当時のままで残る山頂駅のゴンドラ発着所.。ホームの端には、夏の夜間営業時に乗り場を照射していたと思われる投光器が残されています。
ちなみに長野市立図書館所蔵の地元のタウン誌(パンフレット?)に、写真奥の柵の前に整列するのガイドさんと、ゴンドラの懸垂器の上で始業前の索条点検を行う索道マンが写る当時の写真が掲載されていました。
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山頂一帯には、遊園地や動物園の施設の名残りと思われる遺構が点在しており、右の写真のコンクリ構造物は、遊園地の飛行塔の土台の一部と思われます。
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山頂一帯に散見されるレジャー施設の名残。
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なお、山頂北側にあったスキー場(地附山スキー場)は、Tバーリフト1基で営業していた小規模なスキー場で地元の小学生がスキー教室でよく訪れたということです。
を中心とした市のレジャー事業は、同一エリア内に上級自治体(県)が計画した有料道路(戸隠バードライン)が完成したことによって頓挫してしまった訳ですが、このパターンは、同じく市のレジャー事業としてスタートし、県の計画した観光有料道路(三ヶ根スカイライン)の完成により陳腐化してしまった愛知県の三ヶ根山の索道の場合と似ています。
しかし、そのバードラインも前述の地すべり災害によって、一部道路が寸断されてしまったため、地附山の山頂は再び人の訪れない場所になりました。
キーンと冷えた、清冽な空気が心地良い晩秋の山頂に人影は無く、駅跡の林は落ち葉の音がしきりでした。
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