滋賀県の面積の約6分の1を占める日本最大の湖、琵琶湖。その琵琶湖の西側に位置する、東西約15km、南北約20kmの山域が比良山系です。最高峰の武奈ヶ岳(標高:1214m)を中心に、1000m級の山が連なる比良山系は「関西のアルプス」とも呼ばれ、京阪神からのアクセスも良いため、春から秋にかけては登山・ハイキングに、冬季は冬山登山・スキーに多くの人が訪れます。 比良ロープウェイは、比良山地の湖岸寄りの釈迦岳(1060m)中腹の山麓駅から、比良山スキー場近くの北比良峠の山頂駅までの延長1260mを約7分で結んでいた1962年開業の索道。索道の事業者は関西の大手私鉄、京阪電気鉄道株式会社(以下:京阪電鉄)傘下の比良索道鰍ナ、施工は地元滋賀県に本社を置く安全索道が担当しました。 |
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やがて太平洋戦争が始まり事業展開は中断されますが、戦後の昭和20年代には戦後復興と、更なる事業拡大を目指して住宅地開発事業の本格化と、それにあわせた郊外地への特急列車の運行、戦時統制強化によって解散していた流通部門の再開などを次々に果たします。 昭和30年代に入り、高度経済成長の時代が訪れると、全国的に投資ブームがはじまります。 |
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比良索道鰍設立すると、琵琶湖の展望に優れた比良山系の登山・行楽の足として登山リフトの運行を開始。2年後の1962年(昭和37年)には、ロープウェイとスキー場を開業します。 | ||||||
冬季の湖西エリアは、関西方面としては比較的まとまった降雪があり、比良山系には根雪も付くので昭和初期からスキーに訪れる人が多く、湖西を結んでいた江若鉄道(後に京阪電鉄に吸収合併)沿線には、戦前から朽木、箱館山といったスキー場*注1がありました。 |
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1929年(昭和4年)には、京阪電鉄・大湖汽船(のちに京阪電鉄に吸収合併)の共同で、大阪方面からのスキー客を、当時湖西最大のスキー場だった高島市の牧野スキー場(現・マキノ高原スキーパーク)まで誘致する交通手段として、天満橋 - 浜大津間を鉄道で、浜大津 - 海津(旧海津港)間は琵琶湖を船で連絡する「スキー船」が就航します。 |
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なお、スキー船の運航は戦時中に中断されましたが、戦後の1951年(昭和26年)に復活したのち、国道161号の整備に伴うスキーバスの台頭によって、1962年(昭和37年)に運航を終了しました。 |
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比良ロープウェイと比良山スキー場*注2は、昭和30年代の第2次スキーブームと登山ブームの波に乗り、その後、同スキー場は昭和末期から平成初期の第3次スキーブームにピークを迎え、湖西の老舗スキー場として、関西のスキーヤーに親しまれました。 |
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周辺のスキー場の中では滑走距離が比較的長く取れ、急斜面やコブも楽しめるコースなど、独得のカラーを持つスキー場だった比良山スキー場には、固定ファンも多かったといいます。 比良索道は、輸送力増強のため、1976年(昭和51年)にロープウェイ搬器の定員を従来の26名から31名に更新し、1993年(平成5年)には、新造搬器への交換を行う一方、当初シングル1基だったスキーリフトも、1975年に1基新設。80年代にはさらにもう1基追加され、90年代に入るとそのうちの2基をペアに架け替えるなど、ハードウェアの投資も継続的におこなっていました。 しかし、近年はレジャー全般のニーズの変化による利用客の減少に歯止めがかからず厳しい経営状況で、民間や自治体への設備の譲渡による事業の継続についての検討も続けられていました。 最終的に03-04シーズンを最後にスキー場、ロッジを含む索道事業を廃止することが決り、2004年3月に43年間という長い歴史の幕を閉じました。 |
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比良ロープウェイ山上駅ゴンドラ発着所(2004年3月) *写真提供:東京都・松山様 |
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【訪問記】 2009年8月 |
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比良山のすべての索道施設の撤去と跡地の自然修復は、2006年4月から2007年11月にかけておこなわれ、現在、各施設の痕跡は殆どありません。 |
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現在、この建物は他の用途で使用されている現役の施設で、リフトの運行装置は、完全に撤去されて、建物の裏手のコンクリ敷きの乗降ステージ跡のみが登山道から見えます。 |
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比良ロープウェイは、尾根を横切るかたちで架けられていたので、ここから山頂駅まではカラ岳に向かう尾根道を通ることになります。距離的にはかなり大回りになりますが、勾配はここまでと比べるとだいぶ緩くなります。 北比良峠に向かって再び歩き出して10分くらい経った頃、上の方から軽快な熊鈴の音が近づいてきました。顔をあげると、カラ岳方向から完璧な山岳装備の4人組が颯爽と現れ、私たちとすれ違いざまに軽く挨拶をかわすと、あっという間に下山していきました。この日、山中で人に逢ったのはこの時だけでした。 |
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比良山系には展望が良いコースが多いのですが、今回のルートは廃線跡の探訪が目的なので、かなり地味なコース取りです。 |
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北比良峠からの琵琶湖の眺望は素晴らしく、周囲を遮る物の無い山頂広場には、清々しい風が吹いて、あまりの快適さと前日の睡眠不足で、レジャーシートを敷いてここで1時間ほど爆睡してしまいました(笑)。 この後、ゲレンデのあった八雲ヶ原に寄ってから、足元に大きな石がゴロゴロしている「ダケ道」を通って、イン谷口に停めた車に戻ったのは、出発から丁度7時間後でした。 |
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正面に琵琶湖を望む、ロープウェイ山上駅(北比良峠)ゴンドラ発着所跡地。 |
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*注1 既に何度か書いているが、戦前のスキー場はすべてハイクアップのみであり、国内にスキーリフトがあるスキー場は存在しなかった。一般スキーヤーが利用できるリフトは国内では1948年(昭和23年)に群馬県の草津温泉スキー場につくられたものが最初とされており、それ以前は、戦後日本に進駐した連合軍専用のものが1946年に志賀高原(長野)と喪岩山(札幌)につくられている。 *注2 比良スキー場、ひらスキー場と表記される場合もある。戦前にも同名のスキー場が武奈ヶ岳付近に存在したが、天然の斜面を利用した山スキーの範疇に入るもので、短期間で閉鎖された。なお、月刊「登山」1959年第7号によると、比良山系北部の蛇谷ヶ峰にも、戦後の一時期「蛇谷ヶ峰オグラススキー場」なるスキー場があったと記されている。 |