栃木県の日光は、世界遺産に登録された二社一寺(東照宮・二荒山神社・輪王寺)や神橋などの日光駅周辺の人工美(建築美)と、中禅寺湖・華厳の滝・男体山・戦場ヶ原などの奥日光エリアの自然美を併せ持つ、日本屈指の国際的観光地。 中禅寺温泉ロープウェイは、奥日光観光の拠点である東武バス日光の「中禅寺温泉バスターミナル」近くにあった山麓駅(中禅寺温泉駅)と、男体山・中禅寺湖を望む、中禅寺湖南岸の標高1600mの展望地「茶ノ木平」の山頂駅(茶ノ木平駅)間の延長約1kmを約6分で結んでいた索道。1960年の開業から43年間、冬季を除く3月上旬から11月下旬まで(年度により前後あり)運行していました。 この索道の誕生の背景には、東武鉄道の日光開発が存在しました。今回のキーワードは東武の「日光制覇」です。 |
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日光の「観光地」としての歴史は意外に新しく、平安時代に修験の山として開山されて以来、江戸時代に入って徳川家康を祀る神社として東照宮が建立されたことにより、明治の頃までの日光は「聖地」として知られていました。 大正時代の初め、東武鉄道をはじめとする多くの鉄道事業に関わった「鉄道王」:根津嘉一郎(初代)は、日光の観光地としての資質に注目。東武日光線による日光への乗り入れを計画し、1929年(昭和4年)に省線(旧国鉄・現JR)日光駅の隣に東武日光駅を開設し、浅草からの直通運転を開始します。 開通の披露宴で、東武の乗り入れによって日帰り客が増え、宿泊客が減少して日光が衰退することを危惧した地元代表の問いに、根津はこう答えたといいます。「いまのご意見も、ある意味では真実かもしれません。しかし、あなたは同じ人数を考えておられるから、そうなるので、私が鉄道を敷いた以上、二倍三倍のお客を運んできますよ。」 |
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果たして、それまで年間約30万人程度だった来光者は、2〜3年で100万人近くになったと云われています。それにしても、さすがは鉄道王、「当社が」じゃなくて「私が」なところが、カッコ良すぎです。 さらに、1934年(昭和9年)に日光市を中心とする一帯が日光国立公園の指定を受けると、東武*注1は中禅寺湖から日光湯元にかけての奥日光の開発に着手し、東武日光駅からのアクセスの利便性を図るため、駅前から馬返間に路面電車(日光軌道線)、馬返〜明智平間にケーブルカー(日光鋼索鉄道)、明智平〜明智平展望台間にロープウェイ(日光明智平ロープウェイ)を、それぞれ建設して運行を開始。 これらの施設はたちまち人気となり、それまでは東照宮を中心とした日光駅周辺だった日光のイメージは、現在と同じ「日光駅周辺+奥日光」になります。 首都圏から多くの観光客が日光を訪れるようになり、東武の日光制覇の夢は叶ったかに見えました。しかし、既に当時の日本は、優雅な時代から戦時体制へと向かっており、やがて太平洋戦争が始まります。 |
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戦後、大量輸送の時代とレジャーブームが訪れると、東武は都心から日光方面へのアクセスの充実と観光開発に更なる力を注ぎ、1956年、日光線に高性能車両1700系ロマンスカーを投入します。 1700系によって、浅草-東武日光間はついに2時間を切り(115分)、「ロマンスカーで日光」は人気を呼びますが、国鉄もこれに対抗して、3年後の1959年、上野-日光間を110分で走る直通電車「日光号」を就役させます。東海道本線の特急「こだま」並みの設備と性能を有する日光号は準急であるため、特急料金が不要で運賃的に割安感があり、旅客の相当数が国鉄へ流れることになります。 危機感を抱いた東武は、1960年(昭和35年)「世界の日光線にふさわしい車両を」との合言葉のもと、最高時速165km、従来の電空併用から電気制動主体の制動装置を備えた最新鋭車両1720系DRC(デラックス・ロマンスカー)を投入します。 「けごん」「きぬ」「おじか」と名づけられたDRCは、ジューク・ボックスが設置されたサロンルームと1編成に2両のビッフェを持ち、1両おきのトイレには個室タイプの洗面所を配した快適な居住性を誇る文字通り「デラックス」な車両。 |
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DRCは大好評をもって迎えられ、東武は日光方面への旅客輸送・観光開発において再び優位に立ちます。就役の翌年である1961年(昭和36年)には、年間来光者数は400万人を突破(419万人)し、東武の悲願であった「日光制覇」はここに成就しました。 当時の高級車、日産セドリック(初代30型)を彷彿とさせる独得のフロントマスクも人気だったといわれる1720系の写真は、東武博物館HPの保存車両のページで見ることができます。 |
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DRCの投入に合わせて、東武はこの時期、日光の名所を巡る定期観光バスのコースの充実、中禅寺湖南岸の整備など、様々なテコ入れをおこないました。中禅寺温泉ロープウェイ(やっと出てきた)は、この時に造られた施設です。 戦時中に「不要不急」として廃止された明智平のロープウェイも戦後早々(1950年)に復活していたので、当時の日光は、鉄道・路面電車・バス・ケーブルカー・ロープウェイx2と「のりもの天国」状態だったようです。 |
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出典:るるぶ 「日光那須」 1996年 1960年代後半になると、モータリゼーションの影響で、観光バスやマイカーで日光を訪れる観光客が増加し、上り専用の自動車道路「第2いろは坂」が完成します。これにより、路面電車とケーブルカーは廃止されますが、観光地としては着実に成長を続け、東北自動車道が宇都宮まで開通した年の翌年である1973年(昭和48年)には、年間来光者数は821万人に達します。その後、1981年には日光宇都宮道路が日光清滝まで開通し、都心からの自動車によるアクセス時間はさらに短縮されます。 DRCがはじめて浅草-日光間を疾駆した日から半世紀が過ぎようとしていますが、レジャーの多様化・価値観の変化が進んだ現在でも年間650万人以上の入り込みがあると言われる日光は、まさに「別格」の観光地と言えるでしょう。 |
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【訪問記】 2005年5月 2009年7月 |
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現在、跡地は山麓駅・山頂駅ともに、きっちりと更地化されています。右の写真は、バスターミナルの左手にある華厳の滝県営駐車場からの、茶ノ木平方向の眺めです。正面の山肌に、索道の通っていた跡が僅かに確認できます。 |
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ページ中段の図のように、茶ノ木平には、東北方向の明智平に向かうコースと、南西方向の半月山へ行くコースがあり、明智平に向かった場合は、明智平展望台から徒歩か、現役路線の「日光明智平ロープウェイ*注2」で明智平に降りることになり、半月山へ向かった場合は、半月峠を経由して中禅寺湖の八丁出島近くの狸窪(むじなくぼ)に降りることになります。 日光の2本の索道は、ともにモータリゼーション前の開業なので、それぞれ単体での往復か、明智平-中禅寺温泉間の徒歩による山超えを前提とした配置になっていて、2本の路線を使った周回(周遊)コースを取ることは意図されていなかったようです。 |
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登り始めてから15分くらい経った頃、急に空が薄暗くなって雨が降り出しました。やがてどしゃ降りになると、気温もグングン下り、ついさっきまで、観光客で大混雑の駐車場に居たことがウソのようです。 |
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リュックから出した合羽を着込んで歩き出すと、やがて北側に男体山が見えてきました。どうやら茶ノ木平に着いたようです。 下の写真は、かつて茶ノ木平駅のプラットホームがあった場所です。構造物はすべて撤去されていて、一帯は日当たりの良い草原になっていました。正面に男体山、眼下には華厳の滝周辺が見え、索道の現役時代は、華厳の滝観瀑台から樹間を進む搬器が見えたそうです。写真の筒状の金網は、高山植物を保護するための物のようです。 |
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正面に男体山、眼下に中宮祠・華厳の滝周辺を望む、茶の木平駅跡地 |
なぜか、この場所に居た間だけ、雨は完全に上がっていました。駅跡付近は眺めが良く、居心地もいいので、もう暫く居たかったのですが、宿のチェックインの時間が迫っていたので、駐車場に引き返すことにします。 下山を始めると、再び激しい雨が降り始め、雷の音が近づいてきました。さっきからずっと、上の方からの「視線」を感じるので、顔をあげると、周囲の木立で、たくさんの野鳥が雨宿りをしていました。標高差315mの軽ハイキングでしたが、海抜1600mの茶ノ木平では、ちょっとした「非日常」を体験することが出来ました。 |
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*注1 この頁では、当初は独立した鉄道会社として設立し、後に東武鉄道傘下に吸収合併された鉄道会社及び傍系も含めて「東武」と表記する。 *注2 「明智平展望台」は、中禅寺湖と華厳の滝が同時に見える「絵葉書ショット」が日光で唯一楽しめる場所として有名。ここへは明智平ロープウェイでのアクセスが便利なので、同ロープウェイは2005年に搬器のリニューアル行う等、開業から76年(戦時中一時廃止)の現在も盛業である。 |