東武鉄道の赤城山案内(昭和40年代)
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赤城山は日本百名山にも数えられている上州の名峰で、四季を通じて自然が楽しめるネイチャースポットとして親しまれています。
複式火山の赤城山は単体の山ではなく、主峰の黒檜山をはじめとする複数の外輪山の総称。カルデラ中心部には火山湖の大沼・小沼があります。
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赤城山ロープウェイは中央火口丘である地蔵岳(標高:1674m)の山頂と中腹の赤城平を結んでいた、1957年(昭和32年)開業の索道。
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赤城山は、昭和30年代に群馬県と東武鉄道による大規模な観光開発が行われました。赤城山ロープウェイはその時に作られた観光施設のひとつです。この索道の歴史を知る上で「赤城山観光開発」は重要なキーワードで、そこにはレジャー開発を通して見る高度成長期の日本の姿があります。
1955年(昭和30年)、日光における大規模観光開発(中禅寺温泉ロープウェイを参照)に成功した東武は、それに続く開発事業として、同社がかねてから観光資源としての将来性に着目していた赤城山の開発計画を群馬県に提出します。
東武の計画案は、開発予定地区の土地を県から借り受けて開発を行うというもので、既に前橋⇔赤城山麓間をはじめ県内各所に路線バスを運行させていた実績から、競願となった西武鉄道の、土地を県から払い下げて開発行うという計画案を退け、みごと群馬県に採用されます。
さっそく1956年2月から地元の大型旅館だった赤城旅館*注1)の買収とロッジの建設を手始めに、大洞地区までの自動車道路の整備を進める一方で、ケーブルカー(赤城山鋼索鉄道)・ロープウェイ(赤城山ロープウェイ)を建設し、それらを運営する傍系会社(赤城登山鉄道:のちに赤城山ロープウェイと改称)を設立して営業運転を開始。
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その後も1960年(昭和35年)までに、前橋⇔大洞⇔桐生の回遊ルートの建設、前橋口・東登山路の大改修のほか、大沼のボートハウスの整備・宿泊施設くろび荘の建設等を行います。
また、赤城登山鉄道の設立にあわせて回遊ルートの桐生側の玄関口となる新大間々駅を赤城駅と改称、浅草からの直通急行列車の運行を開始します。
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スケート客で賑わう小沼(昭和30年代の絵葉書)
赤城山回遊ルート地図(同絵葉書)
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さらに傍系会社を通じてスキー場、ホテル、動・植物園(!)などの経営にも乗り出し、東武はこの時期、赤城山一帯を関東屈指の観光地にするべく、5年間に観光関連の設備投資だけでも4億3900万円(当時)という渾身のレジャー開発を進めます。(参考資料:東武鉄道編纂 「東武鉄道百年史」)
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一方、そのころ群馬県も赤城山南麓から山頂にかけての一帯に、人口50万の超デラックスな高原観光都市を造る、という壮大な計画を進めていました。なお、「超デラックスな」というのは私がふざけて書いたのでは無く、当時の群馬県の広報映画で本当に使われている表現です。
計画の内容については、ここで私があれこれ書くよりも、群馬県HPの映像ライブラリーで公開されている、1964年(昭和39年)製作の群馬ニュース第49号の2:54あたりから始まる「あすへのみち〜赤城高原観光都市」を観てもらうのが手っ取り早いと思います。ちなみにこの映画には、鳥居峠ケーブルカーの運行時の貴重な映像も登場します。
このニュース映画は、具体的な「計画」と将来的な「構想」が同列に説明されているうえに、内容が急に観光案内のようになったりして、計画としての全体像がいまひとつ掴み難いのですが、逆にそこから「夢がたくさんあり過ぎて上手くまとまらない」感じが伝わってきて、高度成長期という時代がよく現れているように感じます。
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話を東武にもどしましょう。赤城山の開発に着手してから5年後の1961年9月に、東武は赤城山頂の開発計画を立案。しかし5年の間に周囲の状況はかなり変化していました。
前橋⇔赤城大洞を結ぶ赤城南面道路の整備が順調に進んだのに対し、桐生⇔利平茶屋のルートは道路整備の遅れとバスへの乗り継ぎという利便性の悪さと、都内から鉄道でアクセスする場合は浅草⇔赤城の直通列車を利用するより国鉄の上野⇔前橋の急行列車を利用した方が速く現地に着くことなどから、回遊ルートが思うように機能せず、前橋からの往復利用が主流となりつつありました。
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昭和42年に開通した赤城白樺ラインの案内書。
昭和61年の赤城大洞付近のガイドマップ 実業之日本社 ブルーガイドパック 「上州路」より。
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また、全体としての客足が予想していたほど伸びないため厳しい経営状態で、追加投資は見送られます。
やがて昭和40年代に入り、県営の有料道路(赤城白樺ライン:現在は無料)が全面開業すると、前橋からのルートが完全に定着し、桐生からのルートはこれ以上の発展は見込めないという理由から、1967年(昭和42年)にケーブルカーの運行は休止となります(*注2。 |
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さらに、関越自動車道の開通や自家用車の普及によって昭和50年以降の赤城山は都心からのマイカーによる日帰り旅行の対象となり、宿泊客は減少の一途をたどります。
東武の赤城山撤退の前年にあたる1999年(平成11年)の群馬県の統計によると、この年、赤城観光の中心地である富士見村を訪れた観光客62万7000人のうちの約77%の48万3000人が日帰り客で、これでは観光地にとって滞在中の利用客にお金を落とさせるチャンスが少な過ぎると思われます。
昭和30年から始まった東武の赤城山開発は、最終的には撤退という形で幕を閉じましたが、戦後立ち遅れていた赤城山の道路事情や生活インフラはこの開発によって整備され、行政に代って率先的にそれらを進めた同社の地域社会への貢献は大きかったと思われます。この時代の民間企業による大規模開発には、企業としての営利が当然最優先ながら、同時に「自分たちの手で明るい未来を作り、日本の発展に寄与したい」という強い意気込みのようなものが共通して感じられます。
高度成長の時代に、二つの大手資本が「宝の山」としてその開発権を競い、県が人口50万人の近代的な総合観光都市(現在の前橋市の人口でも約32万4000人)の誕生を夢見た赤城山は、幾多の変遷を経て、かつて深田久弥(*注2)が「逍遥の地」と呼んだ 時代の姿に返りつつあるようです。
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【訪問記】 2001年5月、2008年5月 |
ここは、私が索道廃線跡に関心を持つきっかけになった路線です。百名山の黒檜山に登った時に、赤城大洞を出発してから大沼を挟んでずっと見えていた地蔵岳の索道駅舎と、運行している様子がないのに大沼や大洞の周辺に残されているロープウェイの看板(写真右上)が気になったのです。
黒檜山の山頂から駒ケ岳を経由して大洞に停めていた車に戻り、ひと息入れてから地図を見ると、小沼側の八丁峠登山口から登れば20〜30分くらいで地蔵岳の山頂に着くようなので様子を見に行くことにしました。この登山道沿いには昭和40年代頃まで山頂から八丁峠までの滑降コースがあったようです。
地蔵岳山頂は、大沼・小沼・覚満淵が見渡せるなかなかの絶景の地で、展望の殆ど無い黒檜山ではなくこちらに索道を架けた理由が頷けます。(写真右中)大沼と地蔵岳の関係は、どことなく箱根の芦ノ湖と箱根駒ケ岳を連想させ、おそらくそういうこともあって「観光地としての資質あり」として開発が行われたのではないでしょうか。
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ロープウェイの案内板
(2001年撮影)
地蔵岳展望台駅と大沼
(2001年撮影)
大洞から赤城平駅を望む
(2001年撮影) |
山頂駅である地蔵岳展望台駅の入口には立入禁止の立札があり、発着所には搬器が停ったままで、厳しい自然環境のせいで建物はかなり傷んでいました。車を八丁峠に移動させてしまったので、大洞側に降りるコースの途中にある山麓駅の赤城平駅は確認出来ませんでした。右上の写真の地蔵岳中腹の灰色のカマボコ屋根の建物が赤城平駅です。
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索道は1998年(平成10年)に運休し、平成12年に再開の予定でしたが、東武の撤退によりそのまま再開することなく廃止されました。尚、「日本近代の架空索道/斉藤達男 著」の巻末資料によると、赤城山ロープウェイは同書が刊行された昭和60年の時点でも一時的に休止していたようです。
索道の運休と同時に休業に入った赤城山第1スキー場は、赤城の観光開発が行われた時代に整備されたスキー場で、地蔵岳北側斜面の縦横400mくらいの比較的小さなゲレンデには、大洞とロープウェイ山麓駅を連絡する「赤城平スキーリフト」が、ロープウェイ開業翌年の1958年(昭和33年)に建設されました。
リフトからロープウェイに乗り継ぐという変則的な構成になっているのは、ゲレンデが山麓側にあるためで、1966年(昭和41年)には、ゲレンデと八丁峠を地蔵岳東面で結ぶ「八丁峠スキーリフト(*注3)」が架設され、両者を結ぶコースや山頂までロープウェイで登って前述の滑降コースから八丁峠を経てゲレンデまで滑り降りるコースなども造られました。
なお、開発が行われる以前からあった「赤城山スキー場」は、戦前の1929年(昭和4年)に、地蔵岳ジャンプ台(現存しない)で日本最初の国際スキージャンプ大会が開催された歴史のあるスキー場ですが、当時の多くの「スキー場」がそうだったように、かなりバックカントリーの要素が大きいものだったようです。
現在、第1スキー場はコース長100mくらいの村営の児童用ゲレンデとなって復活しています。また、湖尻にあった第2スキー場は休業中、覚満淵側の第3スキー場は規模を縮小して営業しているようです。
2001年に訪問した時の赤城大洞は、まるでゴーストタウンのようでしたが、今回(2008年)訪れた時は、大沼湖畔の老朽化した建物や地蔵岳の索道駅舎が撤去されていて、妙に小ざっぱりとした印象の自然公園に様変わりしていました。
下の写真は、大洞の県立赤城公園ビジターセンターに展示されている1970〜80年代に撮影されたと思われる第1スキー場からの大沼湖畔の眺めです(マウスポインタを乗せると、現在の様子に替わります)。当時の赤城山の勢いを伝える写真として、あまりにも素晴らし過ぎるので掲載します。
写真右手前には1968年(昭和43年)に改修オープンした東武の経営の「ホテル赤城」が、右奥には1970年(昭和45年)完成の国民宿舎「赤城緑風荘」の姿も見えます(ともに現存せず)。スキーをしているたくさんの人たちの楽しそうな姿が印象的です。
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